その頃、私には、制作や創作の結果としての作品を目指すのではなく、ただ「なる」ということに結実して作品を手にできないかという試みや思索があった。それは出会いやその場に流れた時という現実の構築から、ふいに顕れた現象の火影を消さないようにと手を添えるようなものではなかったかと思う。これら写真の背景にある記憶の大半は、写真の外にいる人達の中にこそ存在している。この作品は、パパ・タラフマラと小池博史氏をはじめ、その活動を支えた友たちに関連するものである。彼等の孤高と友情に支えられて、この作品は公開されることになった。
或る日、パパ・タラフマラが解散する。そして解散公演が始まるというニュースを耳にした。解散日は2012年5月31日。ファイナルフェスティバルと題した解散公演では4演目が上演された。第一演目の「三人姉妹」第二演目の「島 ~island」を観劇した後には、このフェスティバルの目撃者であろうという思いが強くなっていた。「CIRCUS パパ・タラフマラの記憶展」は、全ての解散公演が終了した直後から解散日の直前まで2012年4月28日から5月27日の期間、千葉県流山市生涯学習センターにて開催され、その展示が事実上のパパ・タラフマラの最後の活動となった。
2012年5月、私はパパ・タラフマラ解散公演の熱も冷めないまま、「CIRCUS パパ・タラフマラの記憶展」に訪れた。縁もあってか、私は展示会場の記録撮影者としての役目を担っていた。会場に訪れてまず、小池博史氏とパパ・タラフマラの30年の最後を写真にすることはどういうことかと考え始めた。それは途方も無いことに違いない。それらの展示物は会場の枠内を超えて、遥か30年を遡った記憶に繋がっている。展示物を眺めると、美術家たちによって制作されたものたちが、これほどの時間と労力をかけて制作されたものであるということに驚かされた。ひとつひとつの作品には観客席の位置からでは発見することのできない精緻な世界が細やかに散りばめられていた。向かい合った時、その存在が放つ全体としての姿がある。そして視点を少し変えると新たな世界が顕れた。そのひとつひとつが呼応し合い、空間はどこまでも広大で深かった。その世界の中にいて、瞑想するようにただ物思いに耽ることも多かった。静かな会場の中 展示物を背景にし、またそれらを身に着け、身体を燃やし続けた幾多の姿の影が見えるような気がした。数多くの舞台美術作品は、管理の困難さから長期間保存されることが少なく、大部分は廃棄されるのだという。撮影の中、これらの展示物がもう一度、私の周りで舞い始めることはないかと見ていた。
写真の撮影を通して、小池博史氏とパパ・タラフマラの新たな旅立ちを見送りたいという思いがあった。手元に残された写真を用いてどのようにまとめられるだろうかと構想していたその折、流山市生涯学習センターからこの依頼を頂いた。JR常磐線及びつくばエクスプレス沿線地域など東東京地域を中心に活動する「ART ROUND EAST」というアート関連のコンソーシアムがある。流山市生涯学習センターはその団体に加盟しており、JR主催の企画で上野駅 「Break ステーションギャラリー」にて展示するという要請を受けて、これら写真を展示することを計画。当初、展示だけの予定だったが、最善の形をと模索するうちにこのWebサイトを公開することになった。また、私にとっては未発表の新作を公開する場となった。
最後に、小池博史氏をはじめ、小池博史ブリッジプロジェクトの山内祥子氏には深いご理解とご協力を頂いた。かぜたび舎・風の旅人編集長の佐伯剛氏にはパパ・タラフマラと小池博史氏に出会う機会を与えて頂いた。撮影にご協力頂いた流山市民の方々、流山市生涯学習センターの職員の方々、発表する機会を与えて頂いた流山市生涯学習センターの三橋綾子氏、その他関係者の方々にもここに感謝をお伝えしたい。
「なぜ、パパ・タラフマラは解散しなければならなかったのか。」そのことを今も問い続けて。
劉 敏史
2012年12月17日 18:39.